東欧諸国との合弁会社および関連会社


商社勤務当時の上司であり大学の先輩でもあった須藤善邦氏をリーダーとして、東ヨーロッパ諸国と関係したいろいろな会社の設立運営に参加してまいりました。
いずれの会社も共産主義体制の崩壊にともない消滅してしまいましたが、一時期おおいに夢と希望を持って事業に取り組んだものです。

先ずは昭和42年にブルガリアとの合弁会社バルイースト株式会社を設立しました。この時ブルガリア大使館に勤務していて会社の設立に尽力されたドイノフ氏は後にブルガリア国の大統領に次ぐナンバー3にまでになった有能な人でした。
私とはニチブバルイースト時代の仲のいい同僚役員であり、ドイノフ氏とは同郷で彼の腹心でもあったハララノフ氏はブルガリアに日本との合弁の工場を作りたいので私にも協力をして欲しいと言っていましたが、ニチブバルイーストから駐日ブルガリア大使に栄転されて間もなく心臓発作により突然亡くなってしまいました。惜しい人でした。

私はバルイースト社の会社設立の当初から協力をしていましたが、当時勤務していた商社では、商談中であったオーストラリア向け製鉄プラント(冷間圧延設備)プロジェクトの責任者であったためにその商社を辞めて新会社に移るわけにはゆきませんでした。
昭和46年には、そのプラントの輸出契約が無事に締結されましたので円満退職をして、ブルガリアに続いて、チェコスロバキアからの要請があったチェコスロバキア製工作機械のアフターサービス会社である日本チェコ機械株式会社の設立に携わることになりました。
当時は共産国とのバーター貿易が盛んでしたので、かなりの数の工作機械が輸入されており、そのアフターケアが問題になっていたのです。

日本チェコ機械の関連会社としては工作機械のNCコントロール用のソフトウエアーの開発会社である株式会社日本ニューメリカルコントロール(株)(パソコンが殆ど普及していない当時の日本としてはまだめずらしい業種の会社でした)、チェコの毛皮、化学品、食料品などの輸入を主な目的とするチェコスロバキアトレードセンタ(株)を設立、同時にチェコ国営レストランの協力を得てチェコ人コックを招き、日本でのファーストフードのレストランのチェーン店を展開することを目標に青山1丁目の青山ビルに「レストランボヘミア」第1号店をを開店しました。
当時はケンタッキーフライドチキンやマクドナルドの店がぼちぼち出始めるようになっていましたが、まだファーストフードのレストランのチェーン店はあまり普及していませんでした。

その後日本ニューメリカルコントロール社は日本火災に譲渡し、レストランボヘミヤは日商岩井へ売却しました。
日本チェコ機械はチェコの投資会社トランスアクタ社との合弁会社となり、チェコより社長を迎えることになりましたので、私は関連会社であるニチブバルイースト(株)、アグロポール(株)へと移りました。

話は前後しますが、アグロポールはポーランドの化学、食品、機械などの公団との合弁会社です。 昭和46年の設立時には日本チェコ機械が資本金を出したり、事務所の設営をしたりなどをしていて、私もこれに参加して協力をしていたのですが、常務取締役として昭和54年に勤務するようになってから平成10年に会社が解散するまでの約20年間近くを在籍することになりました。その間主に水産物、機械、金属などの取扱いの担当をしていました。

アグロポールは日本での共産国との合弁会社としては最後まで残って頑張っていたのですが、、東芝、信越化学、三和銀行、日本火災など日本の株主の意向により、東欧諸国の体制の変化により当初からの役目は終わったとして解散に踏み切ったものです。

昭和47年に設立された日本興発はホテルニューオータニ、黒川紀章設計事務所などの協力を得てブルガリアのソフィアにスイミングプールやボーリング場付き、客室数504、ベッド数958、地上21階の「ビトーシャホテル」を建設しました。 現在このホテルのオーナーは変りましたが、いまでも一流ホテルとして運営されています。
このホテルの建設に携わったのと同じメンバーでチームを組んでハンガリーのブタベスト、ドナウ川沿いに建設を予定されていたホテルの建設のための入札にも参加しました。
私も担当部長としてブタベストへ行き相手公団と交渉をしましたが、残念ながら落札はできませんでした。
価格では一番札だったのですが採用されなかった理由は不明です。(担当省の次官から理由は聞かないで欲しいと言われました)
今は亡き須藤氏と二人でドナウ川のほとりのレストランで夕日を眺めながらワインで残念の杯を交わしたことが昨日のことのように思い出されます。

須藤さんは私の良き師、よき上司(畏怖すべき)でありまた良き友でしたが胃がんであっけなく亡くなりました。息を引き取られる二日前でした、病室に訪ねていた私に「おれの人生は何であったのだろうか」と語りかけてこれらました。
終始高校生みたいな真面目さを持っておられ、それまで全力疾走をされて来られたのをよく存知ていましたから、「夢幻の如きですよ」と言いかけて口には出せませんでした。

私の知る限りでは彼は最も有能な商社マンであり、洋の東西を問わず政財界のトップクラスの人達と対等にお話の出来る話術の持ち主でもありました。
外国の人たちからの支援もさることながら、優秀な人物を好まれた今里広記氏のバックアップを受けて東欧諸国と関係したいろいろな事業の展開をはかってこられ、また東京にヒルトンホテルを建てることにも貢献されました。
実務家であると共におおいなるロマンの持ち主であったのですが、時に利あらず、また私を含めて力になる部下に恵まれかったこともあって、晩年かならずしも彼の志のようにはゆかなかったようです。



故須藤善邦氏


日本チェコ機械株式会社および日本ニューメリカルコントロール社の合同社員慰安旅行
両社社員一同とチェコ人社員の家族
 
1974年5月 日本ライン下り



昭和52年に作成した関連会社の企業要覧




to top page