修猷館高校時代  



昭和28年当時の修猷館高等学校


私の母方の祖母の弟でA級戦犯として巣鴨プリズンに入っていたこともある横山雄偉が、修猷館を卒業された広田弘毅元首相とは親友であって、二人で腰弁をさげて福岡から上京をしたという話しは子供の頃からよく聞かされていた。

このようなこともあって、少年時代から修猷館への憧れがあった。

また戦後間もない頃修猷館の学生がテレビ映像の放映受信の実験に成功をしたという新聞の記事をみて、ぜひその学校へ入学したいと思うようになった。

地方の町である甘木の中学校から福岡にある修猷館高校への入学することは学区が違うために不可能であったので、中学3年のに福岡に寄留して修猷館にほど近い百道中学へ転校することにした。

当時福岡の渡辺通り1丁目に細長い雑居市場があって、私より5−6歳年上の従兄弟がそこで乾物屋を開いていた。
間口二間ほどの小さなその店の二階に、彼の満州時代からの親友で結核になってしまった為に卒業を前にして田舎へ引き揚げざるを得なかった松本さんという九州大学工学部在籍の苦学生が住んでいたという畳が一枚敷いてあるだけの狭い部屋が空いていたので、取り敢えずそこを使わせてもらうことにした。

歳の暮れ、やけに静かながらんとした無人の市場で一人除夜の鐘をラジオで聞いたのを昨日のことのように思い出される。

意気がってはいたもののまだ中学生。流石に心細かった。

(その狭い屋根裏部屋に松本さんが残していった本の中に、学生の同人誌があった。
その中に次のような文章が載っていたのに強い感銘を受けた。
「飛来する多くの米軍機の爆弾攻撃によって、福岡の町が大炎上を起している真最中に、市の中心部を流れている中州川の対岸でひとり朗々たる声でボルガの舟歌を歌っている者がいた..........」)

修猷館時代は今振り返ってみると、かなり充実していたもののように思う。

若者特有の自身と不安との間を行き来しながらも、純粋で、やる気があって、全力で物事にぶつかり、いろいろと悩み、考え、精一杯生きようとしていた。

良き友にもめぐり合えたし、よい本も読めた。個性のある先生もおられた。

友人のお陰で、それまでは縁の薄かったクラシック音楽に接する機会も得た。

山伏と一緒に油山の小屋に泊まって滝に打たれる寒中修行をしたり、山口県の小月にある山寺に数日間念仏の業をしに行ったりと貴重な体験をすることも出来た。

当時剣道は進駐軍によって禁止されていたのだが、高段者ばかりの剣士達がこっそり腕を磨いていた箱崎の「春風館」という道場に昭和26年に入門して2年間ほど通った。

もっとも学生は私一人であったので、ひたすら軍隊帰りの先輩連中になぐられにいっていたみたいなもので剣道をやったとは言えないのかもしれないが、思いきり相手にぶつかることは出来た。そこで良い師にもめぐり会えた。

時代は既に変わっていたのだが、阿部次郎などの影響もあって私自身は旧制の高校生活に憧れていたので、破れた帽子に高下駄を履いて腰によごれたタオルというスタイルで通学をしていた。今そのような恰好をしていると変人あつかいをされるであろうが、当時はまだなんとかそれで通せる雰囲気があった。(もっとも修猷館では高下駄を履いて歩いていたのはあまりいなかった筈なので、実際には奇異な目で見られていたのかもしれない)
下宿先で友人と人生論や芸術論をはじめゲーテやカント、西田幾太郎や桑木岳峰、はたまたランボー、ボードレールなどなどについてを空が白むまで語り明かしたこともよくあった。

それらの内容をよく理解していたわけではなく、今から思うと冷や汗ものだが、ご本人は自分の存在を賭けるような気分でいたって真剣なものであった。

また今は亡き友人と二人で、長垂海岸にある夏の家を、人気のあまり無い静かな冬場に借りてねじり鉢巻で競うように受験勉強をしたりもした。
当時、3当5落という言葉があって、3〜4時間位しか寝ないで勉強もしていた。
映画は3年間一度も観ていない。 お茶絶ちみたいに、観ないことにしていたのだ。

英語研究会に属していたので、私がかねてからて愛読していたゲーテの「ファウスト」の劇脚本を作り、会の仲間では英語に抜群の力をもっていた山崎惟辰君にそれを英訳してもらって、文化祭で勇躍後輩に英語劇を演じさせようとしたのだが、結局その思いあがった無謀な試みは各所から反対をされて涙をのんだことがあった。
今その英文シナリオを見て、先生方や父兄の方が同意されなかったのは至極ごもっとだと思わざるをえないが、当時の自分としてはかなりがっかりしたものだった。

大浜一丁目にいた頃には、天気の良い日にはよく近くの築港へ参考書を持って勉強に出かけていった。
当時築港埠頭附近は米軍が接収していたこともあって人影はあまりなく、天気さえ良ければ本を読むにはもってこいの場所があった。
ある日、うす暗くなってからそこへ散歩に出かけていたら、誰もいないと思っていた雑草が生い茂り、廃墟のような埠頭の突端にある、古びて小さな街灯の裸電球の薄明かりの下で、派手な服装をした若い女性が二人、スカートをひらつかせながらなにやら楽しそうに踊っていた。
それは現実のものとは思えない、美しく幻想的な映画のひとこまのようであった。
二人は多分進駐軍兵士相手のパンパンと呼ばれていた女性だったのだろう。
当時の私はストイックな硬派ぶってはいても女性には興味を持っていたわけだ。

夕日で博多湾の海一体が黄金色に染まっている時の築港も素晴らしかった。
そんな時、貨物船が埠頭を離れる際に船の大型スピーカーの音量を一杯にあげて音楽を流すことがあった。
一人岸壁に立っていた時に足下の海面から這い上がるようにして登ってくる力強いラ・クンパルシータに感動したこともあった。

(最近久しぶりにそこを訪ねてみたら、築港は韓国などへのフェリーの発着場になっていて、戦前からの古い倉庫群はとり壊されて近代建築となり、すっかりきれいになってしまっていて昔を偲ぶよすがもなくなっていた。大浜1丁目がどこであったか分からなくて交番で尋ねたら、半世紀も昔のことなので大浜の名は今では地図にも載ってなくて、警察官にも分からないということであった。大浜には以前は市電が走り、遊郭もあってそれなりに知られたところだったと思うし、私にしてみたら昨日のことのようだが、まるで浦島太郎にでもなったような気分になった)

振り返ってみると、あれやこれやと思い出は尽きない。

それは暗中模索の連続であって、もっと賢明なやり方があったのであろう。至らぬことの多い青春の一時期ではあったが、未熟で経験不足な若者としてはせい一杯やったことであったので、同じ環境でもう一度やらせたら又同じことをするに違いない。

気力と体力の衰えている今の私では無理なので心身ともに昔のままのにしてあげると言われても、もうごめん蒙りたい。一度で十分だ。

福岡郊外の天拝山にて、高校2年生当時の小生。
古雑巾のようになっていた自慢の帽子は、
突風により築港の海に飛ばされてしまった。
旧制高等学校のバンカラに憧れていたのがこの写真で窺がわれる

体育祭では応援団長を勤めた。
昭和28年当時すでにこのような袴姿で扇子を使った古い形の応援をする者はあまりいなかったようだ。









ゑびす会

修猷館柔道部出身の在京者が主体とになってつくられた会です。
目的は会員の親睦、後輩の育成、ボランティア活動などです。
修猷館出身の方であれば誰でも会員になれます。
私は柔道部員ではありませんでしたが、2003年まで約2年半ほどこの会の事務局長を仰せつかっていました。
戦後修猷館柔道部の初代部長であった清原氏の物心両面にわたるご支援により運営されています



ゑびす会事務所にて
前列左から二人目が清原慶三会長、後列右端が井上



  
ゑびす会囲碁会の事務所での対局風景




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