柿本朝臣人麻呂とその妻依羅娘子が詠んだ歌

( )内に数字のあるのは万葉集に載っているもの


柿本朝臣人麻呂石見国より妻と別れ上来の時の歌二首 (万葉集 巻二 131)

石見の海(み)角(つぬ)の浦廻(うらみ)を浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り(いさなとり)海辺をさして 和多豆(わたず)の 荒磯の上に か青なる 玉藻奥(おき)つ藻 朝羽振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 浪こそ来寄れ 波の共(むた)彼(か)より此(かく)より 玉藻なす 寄り寝し妹を露霜の おきてし来れば この道の 八十隈(やそくま)毎に 万(よろず)たび かへりみすれど いや遠く 里は放(さか)りぬ いや高に 山を越え来ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲ぶらむ 妹(いも)が門(かど)見む 靡けこの山

 

つきさはふ 石見の海の 言さへぐ 韓(から)の崎なる  いくりにぞ 深海松(ふかみる)生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し児を 深海松の 深めて思(も)へど さ寝し夜は 幾だにもあらず 延(は)ふ蔦の 別れし来れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かえりみすれど 大舟の 渡(わたり)の山の 黄葉(もみじば)の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 嬬陰る(つまごもる)屋上の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけれども 陰ろひ来れば 天ずたふ 入日さしぬれ 丈夫(ますらを)と 思へる吾も敷妙(しきたへ)の 衣の袖は 通りて沾(ぬ)れぬ (135)

 

人麻呂の歌

石見のや高角山の木の間より 吾が振る袖を妹見つらむか (232)

青駒の足掻きを速め雲居にぞ 妹があらりを過ぎて来にける (136)

秋山に落つるもみじ葉しましくは な散るり乱れそ妹が当り見む (137)

 

 

人麻呂の死にし時、妻の依羅娘子の作る歌二首

今日今日と吾が待つ君は石川の 貝に交じりて在りといはずやも (224)

直(ただ)の逢はひかつましじ石川に 雲立ちわたれ見つつ偲ばむ (225)

 

依羅娘子の人麻呂と相別るる歌

な念(も)ひそと君は言へども逢はむとき いつと知りてか吾が恋ひざらむ (140) 

 

柿本朝臣人麻呂石見国に在りて、死に臨んで自傷め作れる歌

鴨山の岩根しまける我をかも 知れにと妹が待ちつつあらむ





高角山公園にある依羅娘子像



(以下はホームページ「石見讃歌」より抜粋)

歌聖・柿本人麿の妻といわれ、自らも万葉歌人だった依羅娘子(恵良姫)
の生誕地は江津市二宮町とされ、二宮交流館入り口に顕彰碑がある。
依羅娘子は今から約1300年前、角の里(二宮町を中心とした一帯)恵良の豪商・井上家の娘として出生。
石見の国の初代国守として赴任した柿本人麿の妻になったと伝えられる。才色兼備の女性で歌をよく詠み、
万葉集に三首が載っている。  井上家は、その後裔で近年まで町会議員を務めた井上治三郎氏に至るまで、姓・屋号ともに連綿と受け継がれて現在に至っている。(矢富熊一郎氏)

「石見八重葎」によると、依羅娘子は角野本郷にある西岸寺の前の井上道益という医者の娘である。人麿の三人目の後妻であったが、後に本妻となって都へ上り、
依羅連の養女となり義父の名を名乗った。

 
写真の「 人麿の松 」 は、江津市都野津町にあり、人麿別邸の跡とも、依羅娘子の墓の跡ともいわれている。

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(3)都野津柿本人丸神社

 現在の神社は、井上治三郎氏の父で反物商・平作氏が有志や知人から浄財を集めて、井上家の敷地内に建立したものといわれている。

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