満州国錦州市(錦県)
JINZHOU Manchuria

まだ未完成ですが、思い出しながら書き足したり、訂正したりしながら漸次ベターものにしたいと思います。
何しろ半世紀も前の話で間違いや記憶違いがあるかもしれません、そうした点についてご指摘を頂ければ幸甚です。

ご意見はファックスにて03-3394-0905 迄お願い致します。


新しく竣工されたばかりの当時の錦州駅


私の古い戸籍謄本には「錦県駅前に生まれる」となっている。
住所番地はない。

父吉好は1900年(明治33年)に島根県の都野津という日本海に面した小さな町で生まれた。

子供の時に肩車に乗せられて、沈没寸前のバルチック艦隊の船が黒い煙を出しながら沖合いを行くのを近くの浜で見た記憶があると言っていた。

真偽のほどを確かめたわけではないが、柿本人麻呂の妻として又、「石見乃也高角山乃木際従我振袖乎妹見都良部香(2−132)」(石見のや、高角山の木の際より我が振る袖を妹見つらむか)などが万葉集にも載っている歌人としても知られている依羅娘子(よさみのおとめ)は井上家の祖先である石見の国那珂郡角野本郷(現在の都野津)在住の薬師井上道益の娘であるということになっているのだそうだ。

国府の官吏である人麻呂と結婚をするために、養女となり格式ある依羅(よら)姓になったらしい。

   柿本人麻呂依羅娘子の歌はここをクリックしてください
        
万葉集にある「高角山」が望め「角の浦」を前にする都野津には今でも柿本神社がある。
(井上家の神社あったが、これを市に寄付している)

このあたりは古代春日族の一支族である都努山(ツヌヤマ)族が移住して開拓した里で、3−4世紀に造られた古墳も出土している。

今は鄙びた山陰の地方町だが、昔は開けたところだったのであろう。

井上家は代々御殿医などをしており医者が多かったらしいが、いつの頃からか海運業をやっていたらしい。

慶応生まれの祖母(昭和20年没)の話では、彼女が井上家に嫁いできた頃は五筒屋といって幾つも倉のある船問屋をしていて繁盛していたのだそうだ。

ところが、まだ保険が普及していなったらしく、祖父の代に持ち船が沈没したために貨物や船員への補償などもあってすっかり財を失ってしまった。

父は海外に夢を託して故郷を離れざるをえなかったもののようだ。

それで1916年(大正5年)16才の時に貨物船に乗って単身大連に渡った。

大連では苦学をして大連商業学校を卒業、大連主要物産取引所に勤めていたが、その後独立をして時計屋を始め、当時としては例のなかった軍隊や満鉄関係への月賦販売を手がけたのが当り、大連の目抜き通りに店を持つまでになったそうだ。

昭和7年に父は満州では大連、奉天に次ぐ大きさの商業都市であった錦県へ、満州事変により日本軍が入城した直後に移り住むことにした。

父はその真面目な人柄が買われて、州知事などの要請により、同昭和7年に錦州無尽株式会社(今の相互銀行)を創立して銀行業を始めた。

錦州へは相次いで多数の日本人が住むようになったので、主として日本人による企業や商店などのために地元の金融機関が必要となったからだそうだ。

その後、昭和14年には駱駝営に大満建材鉱業所を、同17年には北票に北票鉱業公司を設立して蛍石、石灰、ドロマイド、ベントナイトなどの鉱山を開発、同じく17年にベアリングやヤスリ等を製造する錦州鉄工所設立し、また肉類を主とした缶詰工場なども経営していた。
興安嶺の方に大規模な森林も経営していた。

満州に本店のある銀行が少なかったこともあったのであろうが、いろいろな事業へ投資参入する機会があったらしい。
また、当時は金融機関の経営者が他の事業を直接手がけることを法的に認められていたのだという。

たとえば有望な鉱山があると聞いて、馬に跨り熱河の奥の僻地まで調査にいったこともあったと父は話していた。

関東軍の司令長官であった東条英機中将から新京の司令部に呼び出されて、お国の為にいろいろな事業を発展させるようにと激励されたこともあったそうだ。

戦時中はガソリンの代りに自動車の燃料などとしても使われていたカーバイトの原料にもなっていた石灰の埋蔵する北票近くの鉱山は資源が無尽蔵だといわれており、ジュラルミン製造用にも使われたというフッ素原料の蛍石の鉱山は現在でも中国第2の出産量で日本へも輸出されているらしい。

蛍石は蛍光の特性があることから、夜になると全山光るのだそうだが、ある日本人が馬賊を助けたことから、鉱山としての正体が不明のまま、その馬賊の頭領からお礼にもらったものを父が引き受けて事業化したのだそうだ。
鉄道の駅から山奥の鉱山までトラックの通れる道路を作るだけで当時のお金で150万円ほどかかったと言っていた。

終戦で父は手がけた事業の全てを失ったのだが、日本の通貨を含めて銀行の金庫にはかなりの現金があったそうだ。(当時満州の物価は日本と同じで、日本銀行発行の通貨も使われていた)
終戦直後にある軍人から、その金庫のお金を持って軍用機で日本へ逃げようという申し出があったそうだが、堅物の父は「ひと様から預かったお金を持ち出して逃げるわけにはゆかない」とお断りして預金者に出来るだけそのお金をお返ししたと言っていた。

要職にあった日本人で戦後八路軍(毛沢東の軍隊)に連行されて投獄され、処刑された方もおられたのだが、父の場合収監されはしたが、中国の人の助命嘆願があって比較的早く出てこられた。官職が嫌いで隣組の組長も断るくらいだったのが幸いしたのかもしれない。

母千代子は福岡県朝倉郡甘木町の出身だ。母方の祖父は繭の乾燥場などを経営していて、使用人も多くいたのだそうだ。江戸時代に一揆で傷つけられたという柱などがある広い家に住んでいたのだが、絹の相場に手を出して失敗して全財産を失くしてしまった。
やむなく母は昭和年に、はるばる満州まで見合いに出かけて行って父と結婚をした。その頃錦県では素人の若い日本人女性は珍しく、町を歩くと中国人からじろじろと見られたものだと言っていた。テニスなどをやっていたそうだから目立ったのだろう。




ありし日の父・吉好と母・千代子

母方の祖母の弟である山雄偉は広田弘毅元首相とは親友で一緒に上京した仲だったのだそうだが、20才の時に書いた「建設者」という本が西園寺公爵に認められて英国へ留学することが出来た。
その後、後藤新平東京市長の秘書をつとめたり、福岡で国会議員に立候補したり(中野正剛などと競ったが、落選している)、帝国ホテルの一室を事務所にして国の外交のお手伝いをしたりしていたが、戦後
A級戦犯として巣鴨入りすることになった。なんでもこの時岸信介元首相とは同室であったのだそうだ。
自ら相撲を取り(慶応大学相撲部のキャプテンをしていた親類の学生と同レベルであったそうだ)、大変な読書家で、また自信満々の雄弁家だった彼はどちらかというと無口で派手なことを嫌う父とは対照的なタイプの人だった。大叔父は中国とも関係があったらしいが、父とは普通の親類としてのお付き合い以上の接点はなかったようだ。

戦前には父方の者までも含めて多くの親類の学生が茅ヶ崎の広大な庭のある横山邸から学校へ通っていた。そこへは相撲力士や、歌舞伎役者、映画俳優なども盛んに出入りしていたらしい。
私の場合は上京したのが戦後であったので茅ケ崎のお世話にはならなかったが大叔父には何度もお会いしている。
既に現役ではなかったが、壮士風の肝っ玉のすわった迫力とその博識にはいつも圧倒されたものだ。しかし既に「旧世界の人だな」という感はいなめなかった。




故横山雄偉夫妻




錦州のシンボルであるラマ塔にて 
右端が父、一人おいて母あとのお二人は母の従兄弟である諸富夫妻
(昭和18年)






昭和9年当時の旧錦県駅


私の錦州での記憶は、錦県駅前で「まるや」という乾物屋(後の丸屋商会)をしていた老松さんのご主人のふところの中からはじまる。
ご主人は商品を並べた店の裏に隣接した6畳ほどの和室にいつも座っていて、よく本を読んでいた。絵が上手で時には私に大砲とか戦車なども描いてくれていた。彼は自分の子供以上に私を可愛がってくれていて、冬にはよく丹前のふところに小さな私を入れていたのだそうだ。

当時の錦県駅はねずみ色のれんが作りの小さい建物で、あたりはごみごみしていたが、駅前には「まるや」の他にもいろいろな店があって賑やかだった。ほとんどが中国人が経営するものであり当然中国人が大勢いたのだが、日本人の子供は少なかったせいか皆私を可愛がってくれた。あちこちのラジオから盛んに「天地内有了新満州」という満州国の国歌が流れていたのをよく憶えている。

まもなくわが家は、錦州市の東側に位置する吉野街にあった「木村土地」という日本人向けの住宅団地に引っ越すことになった。赤れんが作りの平屋で2軒がひと棟になっており、数十棟からなる大きな団地だった。家にはよく来客があるし、住み込みのお手伝いさんもいたから手狭で私が勉強をする机を置く場所も無かったが、質素を旨とする父の方針で結局終戦まで8畳、6畳、畳半からなるその団地住まいで通した。通勤用にも使っていた父専用の馬車の御者は李さんといっていたが、彼の休むスペースもわが家にはなかった。

もっともこれが幸いして、終戦後錦州の日本人の家の多くは近在の中国人による暴民の襲撃を受けて柱の材木までも持っていかれるような目にあったのだが、われわれの団地は鉄条網をはりめぐらせ自衛団を結成していたので破壊をまぬがれることが出来た。

木村土地は富士在満国民学校(小学校)や女学校に近く、市の中心から少し離れていたので、団地最前列の我が家の前には広大なスペースがあって子供の遊び場の天国だった。太いはりがねを輪にしたものを同じくはりがねの先を曲げた棒で転がして遊ぶ輪ころがしや、数人ずつ二組に分かれて帽子のかぶり方で優劣をつけた、鬼ごっことじゃんけんをミックスしたような遊びである駆逐水雷などをして駈けずりまわるほか、よそのグループの子供達と本気で石合戦もやっていた。そこには膨大な量の赤レンガが積んであったがそれがまた格好の遊び場にもなっていた。

「西は夕焼け赤い空、東はまるいお月様、どっちを見ても広いなあ」という文章が国民学校の教科書に載っていたが、まさにそのような広大な風景を家の前で見ることが出来た。

私は子供の頃は虚弱体質だと言われていて運動はからきし駄目で、暇さえあれば本を読んでいるおとなしい子供であったそうだ。入学する前からキングなど大人の本を盛んに読んでいたらしく、5年生の時には吉川英治の宮本武蔵などに夢中になっていた。勿論、山中峯太郎や海野十三、南洋一郎などの夢のあるストーリーに胸を躍らせ、タンクタンクローや冒険ダン吉、のらくろの愛読者でもあった。

当時男の子の殆どは将来は軍人になることを理想としていたが、私にその気は全くなかった。身体が弱くて無理だと思っていたからだ。




昭和16年4月
国民学校入学時の私

錦州は古い町で、町のシンボルともいえるラマ塔のある旧市街は高い城壁で囲まれている。日本人は城内にはあまり住んでいなかったように思う。私はときどき1才年上の仲良しであった隣の大ちゃん(土田大策)と二人でよくそこへも遊びに行った。内地から送られてきた「めんこ」の珍しいのを売っている店があったからだ。ガキ大将であった大ちゃんと壊れかけた城壁をよじ登ったこともあった。

われわれが日本人の子供であることは服装を見ればすぐに分かるのだが、戦前、戦後を通じて日本人だからということで、私が満洲の人にいじめられたりいやな思いをさせられたことは一度も無かった。誰もが好意的であったという記憶しかない。

今の日本では子供の誘拐など恐ろしいことがあるが、錦州においてはそのようなことは聞いたことがなかった。親もあまり心配をしていなかったらしく、われわれ子供だけでどこへでも好きな所へ出かけて行ったものだ。

私がまだ年生くらいの時、その大ちゃんと二人で夕食の後、錦州の東方、かなり遠くにある北大営という日本軍の基地まで軍用機を見に行こうということになった。刈り入れが済んで広々とした高粱畑を通って、紫金山を目標にして歩き、ようやく兵隊さんに会うことは出来たが、肝心の飛行機はそこには無く、すごすごと帰ることになった。途中陽はとっぷりと暮れるし、かすかな月明かりの下では鋭角に切られた高粱の切り株に足をとられて痛くて走れない。野原には子供の死体が捨てられあるわで怖いめにあった。(満州では幼児は死ぬと親不孝をしたということで、そこらに捨てて野犬に食べさせてしまうという風習があった)。
深夜になってようやく家は帰りつくと、この時ばかりは、心配をしていた両親にさんざん叱られた。行き先を告げずに出ていったままで帰りが遅くなったのと、遠く町を離れると群れをなしていた多くの野犬に襲われる可能性があったからだ。

うちにはツルさんという中国人のお手伝いさんが家族の一員のようにして一緒に住んでいた。ペチカの焚き口のある畳半が彼女の部屋だった。(本名を 紙 ツーといっていた)

元警察官の奥さんであったとかで、若い頃上海から錦州へ出てきたのだそうだ。足は纏足で子供の時に罹った天然痘のために出来たあばたのある顔をしていたが、なかなかの物知りで、性格も優しくしっかりしていて、時々感情のコントロールが出来なくなった母を見事になだめていた。3才年下の弟などは、ツルさんにすっかり懐いていて、小さい時などは母親が居なくても平気だったが、ツルさんが出かけると後を追って泣いていた。餃子を作るのが得意で、小麦粉を練って、棒状にしたものを千切り、それを棒で伸ばして丸くて平べったい皮をつくる。その皮に肉や野菜を入れる。といった手作業を見事な手さばきでこなすのを傍でよく眺めていたものだ。時にはまねをしてやらせてもらったこともあった。
また、夜寝るときにはパイパイといって、ふとんの上から軽く手で叩いてくれながら私に中国の古い民話を話してくれていた。彼女は日本語を殆ど話せなかったので、全部中国語で話すのなのだが、どうして私にそのような複雑な話の内容が分かったのか今考えてみると不思議だ。その時のお話の内容の幾つかはまだ覚えている。

そのツルさんは昭和18年だったか、父の馬車の御者であった李さんと結婚をした。
多分40才近かった筈のツルさんはかなりの姉さん女房であったと思う。
李さんは動作のきびきびした好青年であった。
なんでも父が旅行から帰ってきて錦州駅に着くと、いつも真っ先に飛んでくる洋車(ヤンチョー・人力車)引きの感じの良い青年がいたので、自分の所で働いてもらうことにしたのだそうだ。それが李さんだった。
李さんは終戦になると直ぐに馬車を飛ばして郊外にあったうちの缶詰工場まで行き、砂糖とか缶詰とかを大量に運んできたくれた。あの治安の悪い時に危険を犯してまでよくやってくれたと、両親はおおいに感謝していた。終戦後の大変な時、これにわが家は大いに助けられた。
また李さんは「もう日本という国は消滅している。帰国することも難しいが、万一帰れたとしても希望はない。幸いわたしの親族は以前から馬賊を業としていて生活には困ることはない。是非私と一緒に私の故郷へ行きましょう」と言ってくれた。


李さんの他にも終戦になってからも以前と変わらずに親切にしてくれた中国の人たちがいた。

父の会社の役員をしていた羅さんもその一人だ。父を監獄から出してもらうために八路軍に嘆願に行ってくれたのも羅さんとそのお嬢さんだった。
われわれが日本に引き揚げるために無蓋列車に乗って錦州を離れる時、中国人は見送りを禁止されていたのだが、羅さんの家族はこっそり木陰に立って手を振ってくれていた。
彼は北京大学卒の秀才だったそうで日本語も流暢に話しておられて、子供の目から見ても立派な人に見えた。
ある日、生意気にも私が羅さんに向かって「満州人は日本人の下になって働いている。これは不合理だとは思わないのか」と言ったところ、にこにこした顔で、「歴史は大きな河の流れと同じだ。それに逆らってもどうしようもないものだ」という意味の返事をされた。
戦後父は羅さんには自分が大切にしていた長曽根虎徹と銘のある名刀を贈ってきたと言っていたが、共産体制の下ではそのようなもを彼はずっと所持することは多分出来なかったのではなかろうか。

結婚をしてからツルさんは李さんと二人で錦州の城内に住んでいた。
戦後そのお宅に一人で遊びに行ったとき、一応平常に戻ったその時でも「時々匪賊が近くまで襲ってくるので恐ろしい」と言っていた。他所では匪賊は相手かまわずに襲っていたようだが、錦州では匪賊にやられた日本人の家があったとは聞いたことがなかったので驚いた。
ツルさんによると中国人同士では以前から誘拐、殺人、暴行は盛んに行われていたのだそうだ。

もっとも戦後はロシア兵や八路軍(共産党軍)など正規の軍隊の兵隊どもが毎日のように昼夜を問わず土足のままわが家に上がりこんで来て「金を出せ」「物をよこせ」と脅しては略奪をしていった。多い時は一日に7組もやって来たことがある。若い女性は凌辱されろことがあったので、郊外から家に逃げてきていた叔母や、ツルさんに代わって当時うちに住み込んでいた淑子さんなど若い女性は髪を短く切って男装をし、顔に墨を塗って汚して屋根裏で生活することを余儀なくされていた。

淑子さんの家族(野沢さんといわれた)は栃木県から錦州の近くへ開拓団員として来ておられた。終戦になると直ぐに錦州まで逃げてこられたのだが、屈強の野沢さんもうちに辿り着くと男泣きに泣いておられた。なんでも、近隣の中国人に襲われて、大人は捕まれば身ぐるみはがれて撲殺され、赤ちゃんなどはその足を持って壁に叩きつけられて殺されたりしたのだそうだ。若い男性は兵隊にとられていて殆どいなかったので、年配の野沢さんがリーダー格となって同じ開拓団の婦人と子供を連れて、叢や川に隠れたりして1週間ほどかけて錦州まで逃げて来たのだそうだ。もし途中で子供が泣き出したら見つけられてしまい、一緒に逃げている仲間に迷惑をかけるので、自分の手で子供を殺すしかなかったのだそうだ。その危険な状況を感じとったのか、乳飲み子でも草の葉のはねっ返りで顔に傷をつけながら、また終日川の中に終日潜んでいたりしながらも殆ど泣いたりはしなかったそうだ。

ロシヤ軍ばかりでなく、八路軍やの兵隊の中にも軍人というよりはならず者みたいな者が多くいた。連日のように我々の家に土足で上がりこんでは時計やお金を巻き上げていった。
相当な量の略奪物資を個人的に集めていた筈だが彼らの上官はよくそれを見逃していたものだ。
足並みもばらばらで揃わず、だらしない恰好をしたそうした八路軍の行進を歓迎するためにかり出され時などはみじめな気持になった。彼らの幹部には立派な人がいた筈だし、その後軍の規律もよくなったと聞くが、当時のわれわれ、特に子供にとってはひどい連中だとしか思えなかった。

私が大学生であった時にこれらの体験について話をすると、進歩的な学生達から「毛沢東やスターリンの(聖なる)軍隊についてありもしない嘘を言うな」と集団でリンチに近い抗議を受けたものだが、残念ながら私と同じような満州での体験者は幾らでもいる。理想と現実はなかなか一致するのが難しいもののようであり、あるいはそれが人間の本質的なものなのかもしれないが、戦争は人間を平時とは別のものにすることがあるようだ。平和の今を本当にありがたいと思う。

もっとも今になって思うと、急に勢力を広げてきた八路軍は、兵隊の頭数を増やすために、志願兵に厳しい資格条件をつけるわけにはゆかなかったのであろう。志願兵の中にはその軍隊が蒋介石のでも毛沢東のでも別にかまわず、戦争に勝ちそうな方に付きお金が稼げれば良いというのも多かった筈だ。

私の同級生に吉川君というのがいた。彼はわれわれより2歳年上ではあったが、家庭の事情で学年が遅れていたが、気はやさしくて力持ちというタイプの男だった。
私とは机を並べていたこともあって彼とはとても仲がよかった。当時満洲に住んでいた殆どの日本人がそうであったように、私の中国語もただなんとか通じるだけのひどいものだったが、彼のは「自分は日本人だ」といっても中国人に信じてもらえないほどの高いレベルのものだった。

終戦になって学校どころではなくなっていたので、彼ともしばらく会っていなかったのだが、その彼が突然私の家に八路軍の軍服を着て訪ねてきた。


その頃錦州にいた日本人には日本に帰りたいという切望はあってもその可能性は少ないと思われていたし、日本についての情報は全くと言っていい程得ることが出来ない状態だったので、仮に帰っても日本は鬼畜のような米軍に占領されていてひどいことになっているに違いないと想像されていた。彼の場合はご両親が既に亡くなっておられたので「自分は中国人になることに決めた。それで八路軍に志願した」と言っていた。なんでも彼は工場やビルなどの電気関係の補修係りをしていて、主にヒューズが飛んだ時に直す仕事をしていたそうだ。「お金は十分持っている、何か欲しいものはないか」とも言ってくれた。

彼の場合も別に毛沢東の思想に憧れて入隊したわけではなく、たまたまその時八路軍がそこにいたからだ。その後吉川君がどうなったか、気にはなるが知りようもない。12才で一人前の兵隊とは恐れ入るが、少年の兵隊は蒋介石の国府軍にもいた。しかも上級の将校もいた。多分縁故で得た地位だったのだろう

世界的に読まれていて自叙伝的な本である「ワイルドスワン」の作者のお母さんも終戦当時同じ錦州に住んでいたのだそうだ。

私とそのお母さんとは年令が近く、満州の人から見た日本人についての記述もあるので、特に興味を持ってその本を読ませてもらった。
その本によれば、作者のお父さんは当時共産党の高級幹部であったのだそうだ。
しかし、そのお父さんを含めて、当時の党の幹部ですらその後党から想像を絶するようなひどい仕打ちを受けた人が多かったらしい。

吉川君はその古い兵暦からいって、軍の幹部になって恵まれた生活をしている可能性が高いと思っていたのだが、実際はどうなったのであろうか。知る由もない。

その後、八路軍と国府軍との間の最初の本格的な戦闘が錦州で勃発した。
わが家の前でも銃撃戦があり、迫撃砲の弾が町にも降ってきた。流れ弾を防ぐために畳を窓の内側に立てかけたのだが、私は怖さ半分興味半分で、その隙間から死者や負傷者の出た市街戦を眺めていた。

彼らはその後も長い戦いを続けている。良いやつであった吉川君には無事であって欲しいと願うばかりだ。

錦州の冬は三寒四温で温かい日もあるが、電線がうなり、タオルを濡らして外で一振りするとたちまち凍ってそれでチャンバラごっこが出来る程かなり寒くなることもある。しかし子供達にとってその寒さはそれほどのことではなく、川や池がしっかりと凍るのでスケートが楽しめる。学校の校庭や野球場も冬季は全面スケート場となり、そこではわれわれ小学生でもアイスホッケーをやっていた。独楽も短い棒に付けた紐状のもので叩く氷上用の独特なものだったが、それを仲間と夢中になって遊んだものだ。

秋には全校あげての兎狩が最大のイベントだった。
一年生から高学年まで生徒全員が手をつないで輪になって一つの小山を囲み、歓声をあげながらその輪を縮めてゆき、最後には用意していた網に兎を追い込んでゆくのだ。「兎追いし彼の山・・・」という歌があるが、今にして思うと懐かしい思い出だ。

しかし当時、当事者であった子供達にとってはあまり楽しいものではなかったような気がする。規模が大きすぎて狩がどうなっているのかよく分からず、その他多勢の一人として只先生の指示のままに動くばかりで、人の輪が段々と小さくなって後列になればなるほど兎にお目にかかることがなかなか出来なかった。
かなりの戦果はあったようだが、多分それらは先生方の胃袋に納まっていたのだろう。

殺風景で厳しかった長い冬が終ると、徐々にではなく、突如としてあたり一面緑の世界に変る。
雪のように舞う猫柳の綿。甘い香りのあかしやの花。天高く囀るひばり等々で急に華やいだ世界になる。私の思い出にある満州の春は希望に満ちていて素晴らしものだ。

あちこちでお祭りもおこなわれて大勢の人が集まる。いろいろな屋台や出店、人形芝居小屋などがでる。鐘や銅鑼に合わせて、1メートル以上の棒のついた靴を履いて京劇のような格好をして踊る高足踊りがあり、龍が玉を追う。

私もお小使いを手にして、わくわくしながら友達と一緒によくそこへ出かけて行って影絵を覗いたり、平べったくした餅に蜂蜜やねぎなどの巻き込んだようなお菓子(チェンビンとかいっていた)などを買って食べたりしていた。

誰であったか、「黄塵万丈という表現は誇張ではない」と本に書いていたが、やがて、世界中を覆い尽くしたのではないかと思われるような蒙古風が連日吹き荒れる。
砂漠からでも飛んでくるのか、ものすごい量の細かい砂ほこりだ。目も鼻もあけられないとはこのことだ。二重の窓からも砂は容赦なく家の中へも入って来る。
そのスケールの大きさを表現することはむつかしい。(今は黄砂といわれて日本にも飛んできている)

満州は土地も広いが、こうした自然現象もでかい。
烏だって、すごい。

朝と夕方には烏の大群が空を覆う。それも後から後からと長時間にかけてだ。どこへ行くのか不思議に思ったものだ。
地上に降りてこようものなら、電線という電線は烏で一杯になる。
東京に烏が増えたというがこれはまるで比較にはならない。

錦州の近くに女児河という比較的大きな川が流れている。たまには友達とその川へ釣りに出かけていたが、春先の一時期、腰の深さほどその川に入ったら、上流から流れてくる小枝みたいな漂流物が身体で堰止められてたちまち累積されて大きくなり、立っていられなくなる。
なにしろ水面が見えないほどの大変な量なのだ。そのような時に釣り竿をたらすことなどは勿論不可能だ。

父と一緒に行ったことはなかったが、父も時には釣りに出かけていたようだ。洗濯盥を一回りするような大きな雷魚を釣ってきたこともあった。

父の会社には小さな漁船があって興城に置いてあった。社員の家族との慰安旅行ではその船で車海老を獲ったりしていた。それは豪快なもので、大きな網一杯に海老が獲れる。それを海岸に用意していた風呂釜のようなでっかい鉄鍋でてんぷらにして食べるのだ。

錦州に海はなかったので、海水浴をするのに大連か近くの興城へ行っていた。
興城では時期によっては海の色が変る位にくらげの大群が発生した。それに刺されると猛烈に痛い。そのような時には泳げないから、竹の刀を持って腰まで海に入り友達と二人で背中合わせになって、くらげ切りをやったが、あまりにくらげの数が多過ぎて結局逃げ出したことがあった。

また母親に連れられて大連の星ガ゙浦とか夏家河子海水浴場へもよく行った。
2002年50数年ぶりに大連へ行った時に、土地の人に昔話をして、沙河口では遠浅の海を歩いているとよくでっかい蟹が足に当ったと言ったら、今はもう殆ど蟹はいなくなったとのことだった。興城のえびもひょっとしたら大漁が期待出来なくなっているのかもしれない。

久しぶりに行った星ガ浦ではがっかりした、以前は高級なリゾート地で海水浴の出来る砂地があったのだが、今は晴海へでも行ったみたいにすっかりコンクリートで埋め立てられていて、だだっ広い公園になっていた。
よく見ると、子供が二人砂で遊んでいる小さな銅像があって、「嘗てはここに海水浴場があった」としるしてあった。
以前そこには星ガ浦会館という当時としては高級なホテルがあったのだが、そこで南京虫に噛まれた傷痕が今でも私の足首に残っている。当時大連のどこにでもいた南京虫はそのホテルにもやはりいた。部屋の隅の隙間という隙間に、あの丸くて扁平な形をした、赤黒くて3−4ミリほどもあるグロテスクなのがびっしり詰まっていたのだ。ベッドの廻りに新聞紙を敷いて夜の攻撃をかわそうとしたら、敵はなんと天井からばらばらと飛び降りてき来たのには参った。

錦州の家では客が時々しらみを持ってくるので大騒ぎをすることはあったが、南京虫にやられたという記憶はない。しらみが出ると母親が衣類を煮沸し、冬はそれらを外に出して凍らせていた。殺虫剤などはなかったのだ。






昭和15年、興城海水浴場にて
中央が母、隣に座っているのが弟、水着を着て立っているのが私



大連ではお目にかかれなかったが、上海のバンドを歩いていたら昔なつかしい「凍糖葫蘆」が売っていた。日本には無いものだが、強いて言えば夜見世などで売っている杏に水飴をつけたのに似ている。ただもっと味がさっぱりしていて、少し酸味があり、飴がもっとぱりぱりしている。これを7−8個串刺しにして、その串数十個を長い棒の先に巻きつけてある藁の束に挿したのを、糖葫蘆(たんふーる)売りが肩に担ぎ、「糖葫蘆!」「糖葫蘆!」と声を出して売り歩いていた。

私はこれが大好物であったのだが、母は不衛生だからと言ってどうしても買ってはくれなかった。なにしろほこりが付き、蝿のたかっているものだから、今にして思うと母がいやがったのも無理はない。それでもこっそりと買って食べていた。

上海で糖葫蘆を買って食べたが、以前と同じ味がしていおり、一気に50数年の昔へ戻ったような気分になった。その母はとうの昔に亡くなっている。ちなみに上海ではほこりがつかないようにプラスチックの容器に串刺したものを入れて売っていた。

昭和20年の8月15日は夏休みであったので、私は近所の堀口君の家で遊んでいた。彼のお父さんは憲兵中佐(憲兵は大佐が最高位)でその日は不在だった。お昼近くになって、彼のお母さんから今日は陛下の重大な放送があるから家にお帰りなさいと言われて帰宅し母親と二人でいわゆる玉音を聞いた。

その日錦州は快晴でとても暑かった。よく聞き取れなかったが日本が負けたことは分かった。必勝を信じる軍国少年であった私は母親と一緒に涙を流して泣いた。

ソ連軍が真近まで攻めて来ていることもあって、その日父は軍の命令により鉱山にあるダイナマイトの処理をする為に北票へ行っていて不在だった。その夜は、しっかりと戸締りをしてひっそりとしていたのだが、あちこちで、窓ガラスを誰かに割られている音が聞こえてきて、不安な夜を過ごした。父が無事に家へ帰れるかどうかも心配だった。(大分苦労をしたらしいが、父は数日後無事に帰ってきた)

9月5日には暴民による略奪があった。
(後で聞いた話では、暴民は郊外の人たちによるもので錦州の人は殆ど参加していなかったそうだ)

父はわれわれ住宅街の自警団員の一人として家に残り、私は母と弟の三人で近くの満鉄会館を目指して逃げた。暴民のなかにロシア兵も混じっていたといううわさがあったが、逃げるところを軽機関銃のようなもので乱射された。母は恐怖でしっかりとは走れなくなっていたのでその手を弟と二人で引っ張った。

後で聞いた話だが近所に住んでいて私とは同級生で仲良しだった石原君がその時撃たれて亡くなったそうだ。
隣の土田さんのお宅では営口市の警察所長をしておられたお父さんが不在であった。おばさんは風邪で高熱を出して寝ていた
5才になる桂介くんをおんぶして逃げていたが、気が付いたらおばさんの背中で圭介くんは亡くなっていた。暴民から逃げるのがせい一杯でしばらくはそれに気付かなかったのだそうだ。

堀口君のお宅はわれわれ団地の外にある二階建ての大きな一軒屋であったが、これは暴民に襲われた。

父の話では、彼のお母さんは家から逃げださずに、家を破壊されている間中ずっと一人でそれをベランダから見ていたのだそうだ。暴民も気おされてか、おばさんには手を出さなかったそうだ。流石憲兵隊長の奥さんだと両親が話していた。

たまたま高校で同級生であった山崎君も学校は違っていたがやはり錦州からの引揚者であった。彼のお父さんは軍属であったので、軍人と同様にその家族は終戦と同時に列車で町から逃げ出したのだそうだ。一般市民をおいてきぼりにしてのけしからぬ話なのだが、結果的には朝鮮で全員列車から引きずり降ろされで暴行、略奪にあって生命からがらのひどい目にあったのだそうだ。

そこへ行くと憲兵は少し違っていた。掘口くん宅には7人の憲兵がいたのだが、彼らは市民を守るために軍刀で暴民を迎え討って戦い最後は全員刺しちがえて亡くなったと聞いた。我々を襲った暴民は一日だけだったので、家が無事であった者はその夜には自宅へ帰ることが出来た。家を失った人達はしばらくその満鉄会館へ残らざるを得なかったのだが、そこへロシア兵が入って来て、若い女性をトラックに積んでをどこかへ連れて行ったと聞く。

(未完)

                                     


平成17年9月11日 錦州会第30回総会が新橋でもたれ懐かしい錦州時代の思い出話に花が咲きました



総会ご出席の皆さん一同









私のホームページをご覧になって、錦州会という全国的な会があることを教えて下さった方がおられました。
ご親切にも錦州市の戦前の詳細地図、終戦時に私が在学していた富士在満国民学校などに通っていた方のお名前や現住所なども載っている会員名簿や、その校舎の写っている写真のコピーなども送って頂きました。
深く感謝しています。



                                 
錦州会から頂いた名簿に、何と私が国民学校(小学校)の一年とニ年生の時の同級生で、
机を並べたこともある金丸恭子さんの名前があるではありませんか、しかも私の家から歩いて行けるほどの近くに住んでおられる。

彼女はニ年生の時に大連に引っ越されていて、約60年近くもお会いしていなかったのですが、
早速連絡をとってお会いすることが出来ました。
懐かしい限りでした。 生きていると思いがけぬことを経験するものです。

下の写真は彼女が満州から引き揚げる時に持ち帰られたものです。
(私どもが引き揚げる時には満州の景色が写っている写真の持ち出すことを一切禁止されていました)



後列右から4番目、先生の左に写っている背の高いのが私
昭和16年、富士在満国民学校1年生、松田先生組一同
太平洋戦争勃発直前のものと思われる
井上の前にいるのが鈴木義雄君








二年生時、担任鶴見先生



ここに書かれている名前はなんと仲野谷さんが記憶しておられたものです。



平成15年9月21日に東京の新橋で錦州会の総会がありました。
私としては始めての参加出席でしたが、小学校同学年であった鳥巣君、それになんと2年生の時の
担任であった鶴見先生の弟さんであるという1年後輩の鶴見氏と同席して、
懐かしい昔話に花が咲きました。
先輩諸氏の中には父が経営していた蛍石の鉱山の近くの北票で満鉄による石炭の採掘の関係をしておられたという
小嶋健氏がおられて、その蛍石を運送したことがあるとのこと。
その鉱山が山奥にあって、狼の遠吠えを聞いたことなどを思い出しました。
総会の後の校友会では、私と1年から3年まで同級であった美山(旧姓仲野谷)さんと
ゆっくりお話をすることが出来ました。






前列左から鶴見州宏氏、鳥巣厳久氏と私
2003年写)



平成19年(2007)5月11日
65年ぶりのクラス会




私のこのホームページを見て、錦州の小学校1年と2年生の時に同じクラスだった
鈴木義雄さんが、突然連絡をしてこられましたので、
同じく2年生まで同級だった山村さんと美山と4人で65年ぶりのクラス会をしました。
その後終戦を満州で迎えることになり、引揚げた後にもそれぞれに語り尽くせぬほどの
苦労があったようですが、こうして楽しい再会を果たせたことはまことに有難いことです。







2010年度大宮公園でのクラス会 

あとで立ち寄った小さな喫茶店で、錦州のおられたことがあるという先輩老夫人が懐かしいと言われて突然われわれのところへ来られ
大いに歓談されました。 このような偶然もあるものです。






2014年4月富士満国民学校1年松田組のクラス会
新宿御苑

左より美山さん、山村さん、渕上さん、小生、鈴木さん


奇跡的再会!

今年新たに渕上(旧姓噌西)道子さんがクラス会に参加されました。
渕上さんは皆さんと なんと72年ぶりの再会となりました。
渕上さんと美山さんとは家も近くて仲良しだったのだそうです。

福岡の高校の在京OBで囲碁の好きな者が 以前より時々集まって囲碁を楽しんでいます。
その中で特に仲良くしていただいている、3年先輩の方の一人が
昨年より私の自宅にお見えになって、二人で囲碁を打つようになっていたのですが、

そこでいろいろと雑談をしているうちに、信じられないことに、その方の奥さんが
私と小学校1年生の時の同級生であることが分かりました。

ご夫婦は東京の大学の先輩後輩の関係でお知り合いになった由、
ご主人は満州とは全くご縁がなかったわけですし、
錦州市には小学校が3校あり、一年生のクラスもいくつもあったわけですから、
これは奇跡に近い発見だと驚きました。

ちなみに、山村さんは当時私の隣の席に座っておられまして、
現在は私の自宅より徒歩約十五分くらいのところに住んでおられます。






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