ハンテングリ峰(7,010メートル)登山

1995年1月 白山書房出版 「山の本」 10月号への寄稿文

三藏法師などのお坊さんや商人たちにとって、中国と天竺(インド)を結ぶ主要な通路であった天山山脈から眺められ名峰として古くから知られている秀麗な山・ハンテングリ峰(7,010メートル、精霊の王の意)の頂上を踏めたのは1989年8月15日。奇しくも終戦の日であった。

昭和20年、当時私は10歳であったが、満州国の錦州という町でその日を迎えた。ソ連軍進駐下のあの当時の苦い体験は思い出したくないしこりとなって、いつまでも心の奥底に残っていた。その私が、あろうことかソ連の誇るハンテングリ山頂に、しかも終戦の日に立つことが出来るなどとは当時夢想だにし得ないことだった。

勿論ハンテングリに登ることになったのは、そのような過去の出来事とは全く無関係だった。

ペレストロイカのお陰で、今まで深いベールに覆われていたソ連の山が次々と外国人にも開放されたのだが、1989年にはハンテングリ峰も初めて世界に開かれるこになったのである。

しかし、登山の対象としてのハンテングリがどのような山であるのか、日本には全くといっていいほど資料がなく、50歳になって初めて「山登りなるもの」を始めた私に、果たして登れるものかどうか、分かる筈も無かった。

山をこよなく愛していた高校時代からの親友の突然の事故死がきっかけとなって、それまで全く無縁であった登山の世界に足を突っ込んで三年目、すっかり山の魅力にとり憑かれていた私は、7月か8月に登れる海外の山を探していたところ、モンスーンなどの気候の影響が少ない、しかも姿の美しい7,000メートル級の山に登れるチャンスがあることを知り、飛びついたものだ。

だが実行する段になって、この計画の実現がかなりむずかしいものであることが分かった。自分自身の休みをとるのにも随分苦労をしたが、40日も会社を休めるパートナーがなかなか見つからない。同じ時期に、この山に登ることになっている人達にも当たってみたが、登山経験が浅く、見ず知らずの高年の男を、登攀難易度も分からない高所登山のザイル・パートナーにすることには当然のことながら躊躇された。

たまたま以前に登山の手ほどきを受けたことがあり、クライマーでもある、日本からのハンテングリ登山者のお世話をしていた旅行会社「イーストツアー社」の武川社長から「ヒマラヤよりずっと緯度が高く、7,000メートル以上もあって、しかも鋭角にとがった難度の高い山にあなたが登るのは無理だ、ほかのもっと易しい山にするべきだ」と助言される始末だった。

さらにまずいことが起きた。登山予定前年の2月、氷瀑登攀を終えて下山中に、笛吹川東沢にある乙女の滝のF1上部でノーザイルのまま滑落したが、奇跡的に助かり、右足のアキレス腱を切る、という事故に遭ってしまった。

三ヶ月もギブスをはめられた足はすっかり細くなってしまって、公園を散歩するのもやっとという状態になった時には、年齢からみて一時は、ハンテングリはおろか、山に登ることそのものをあきらめなければならないのではとさえ思った。

しかし、そうなるとかえってハンテングリへの思いは膨らんでいった。

まずスポーツ・ジムに通うことにした。水泳と徒歩訓練だ。

次にハンテングリ登山のパートナーとしてプロのガイドを選ぶことにした。幸いガイドの松本正樹氏が客を募っていたのだ。
もっとも、これもスムースにはいかなかった。私以外に参加希望者がいなかったので中止することになってしまったのだ。

交渉の結果これは余分に経費を負担することで何とか解決した。

ようやく右足も良くなって、予定通り724日に新潟を発ち、ハバロフスク空港に降り立った時には、よくここまで来れたとの感を深めた。

飛行機とバスを長時間乗り継いで緑の山に囲まれたカルカラの草原に設営されているキャンプ場に着いたとき、チェコ隊のクライマー一人が雪崩で亡くなったことを知り緊張した。

そこからは氷河を挟んでハンテングリの基部に設営されたベースキャンプまでヘリコプターで飛んだ。歩けば1ヶ月以上は掛かるだろうとのことだった。高度4,000メートルのベースキャンプにはいろいろな国から既に多くのクライマーたちが来ており、日中は暑いのでビキニ姿の女性までいた。われわれ二人は労山関係の人たち17人とキャンプ場が一緒になったので、同じ隊のメンバーであるかのように親しくなり心強かった。

高度順応のために松本氏に従ってバヤンコール西峰(5,250メートル)に登ったが、4,500メートルあたりから私はひどい頭痛に悩まされ、食欲を失った。顔も腫れているという。三日もろくに食べられない日が続いたが、ふらふらしながらも何とか松本氏について行った。無事に所期の目的を果たして、ベースキャンプ近くまで下りて来たとき、よほど疲れているように見えたのだろう、ロシア人の青年がやってきて、私の重いザックをひょいと担ぐとテントまで運んでくれた。これは心底ありがたかった。お礼を言いたかったのだが、遅れてテントに着いた時にはもう彼の姿はそこに無かった。

 

ベースキャンプでも頭痛が治らないので、英語の話せるソ連の男性医師に診てもらった。なんでも芭蕉の俳句が好きだそうで、日本のことをよく勉強していた。薬をくれたので、少しばかり現金を渡そうとしたのだが、「あなたは山を愛している。私もそうだ。山を愛する同志からこのようなものを貰うわけにはゆかない」と言って受け取ってくれない。ソ連の人は誰でもこうした謝礼を受け取ってくれると聞いていた私は、恥ずかしくなって失礼を詫びた。彼とはその後もいろいろなことをよく語り合い、友達になった。

 

ハンテングリ登山の場合,帰国する飛行機の便の変更が殆ど不可能であった。万一乗り遅れた場合何時帰国出来るか分からない。また高所・高緯度での夏の期間はひどく短いので、登山活動日数が厳しく制約されていた。

われわれはハンテングリの北側から取り付いたのだが(翌年からは比較的楽で安全な南側から登るようになったらしい)、岩あり、氷壁あり、氷河にクレバスあり、ピッケルを受け付けないような硬いブルーアイスありで、小人数でザイルワークをしていたのではとても40日で登れる山ではなかったが、ソ連隊が使った固定ロープが残置してあったので、危険だとは思ったが、登り下りともにありがたくそれを使わせてもらった。

ロープは古くなっているうえにかなり痛んでいて、あちこちの切断個所をつないでいるという代物だったので、ユマール(常時ロープを手でつかんでいなくても、滑落した時に固定ロープと自分とを確保してくれる器具)は使いものにならず、やむなくピッケルとカラビナでロープを挟むようにして確保することにした。

寝ていても息苦しくなるような空気の希薄な高所では、歩行速度はがた落となるのだが、そのほかにもいろいろな理由で時間がどんどん経ってゆく。1メートル以上もギャップのあるクレバスを飛び越えた時、ザックに入れてあった水筒を深いクレバスに落としてしまい、代わりをテントに取りに戻るのに相当時間がかかり、あぶなく一日ロスしそうなこともあった。また高度順応をしてベースキャンプへ戻る途中、ルートが分からなくなり、長大なクレバスにブロックされて氷河の中でうろうろしているうちに暗くなり、あわやビバーグかと途方にくれていたところ、ほかの人を捜すために登ってくる人があったので助かったこともあった。

連日の猛吹雪で山中のテントから殆ど出られない日も三日あった。

8月17日までにカルカラへ戻らなければならないので、ぎりぎり815日が登頂最後のチャンスだと言われた。

8月13日。C2(5,500メートル)で悪天候のため停滞していたわれわれのテントにHさんが転がりこんで来た。登頂はしたものの目をやられて自力では歩けず、仲間に助けられての下山だった。日本人隊員のなかでは屈指の力量の持ち主と思われる彼が「夏はもう終わった」と言うのを聞いてショックを受けた。

814日。ようやく天気が回復してくれたので二度目のアタックキャンプ(5,900メートル)まで登り、氷室と化した雪洞で労山の最終アタック隊と合流した。

その夜はあまりにも冷えたので隣りに寝ていた北沢さんに身体を寄せて何とかウトウトした。

815日。4時半起床、なんと外は素晴らしい快晴だ。雪洞から飛び出すと、わくわくする気持ちを抑えるようにして頂上をめざして白銀の稜線を急いだ。体調はいい。しかし山の天気は変わりやすかった。やがて骨の髄にしみるような寒風が吹き出す。近くを登っていた二人が寒さに耐えられず、敗退するという。松本氏の様子もおかしい。目がよく見えなくなったので、私に「一人で登ってくれ」と言う。

夢中になって、ただひたすら上をめざしていたら、急に傾斜が緩くなって広場のような所に出た。労山の山中さんと北沢さんが駆け寄って来て「おめでとう」と祝福してくれた。頂上なのだ。なんだかあっけない気がした。「まだまだ登れる」とさえ思った。

あとで知ったことだが、ソ連側主催者の話によると、55歳の私がハンテングリ峰最高齢登頂者であったらしい。

360度の展望を満喫して、下りは山中さんについて行くことにした。

6,000メートル弱の高度にあるわれわれの雪洞から、途中高度順応をしないで、1,000メートル以上の高度差のある頂上まで一気に登るのはすこし無理なのだそうだ。日程の都合もあって、あえて敢行したのだが、そのツケは間もなくやってきた。目的を達成したために緊張が緩んだせいもあるのか、時間が経つにつれて疲労がひどくなってきた。固定ロープへの確保とアイゼンワークに対する集中力が薄れていくのが分かった。

下山する方向が分からなくなり、山中さんがルート探しをしている間、彼には悪いが雪の地面にしばらく座りこめてほっとした。

いつまでもそこに座り続けていたかった。

日はとっぷりと暮れて風は止み静かだった。というより無音の世界だった。

歩き出す。やがてコルに出て傾斜がなくなったが、身体がいうことをきてくれない。ピッケルに体重をかけて喘ぐ時間が長くなる。もう中山氏についてゆけない。しかしひたすら足を前へ出す。ほとんど立ち止まっているようだが、歩く。まるで敗残兵になったような気持ちになる。

いろいろな考えが頭の中を横切る。頂上に立ったということの意味がすごくちっぽけな取るに足らないことのように思えてくる。ハンテングリにしてみたら、われわれの頭に蚤が登ったほどにも感じなかったことだろう。

コルから15メートルほど南側に降りた所に雪洞が掘ってあるのだが、そこへ下る取り付きが分からない。ひょっとしたら通り過ぎたのかもしれないと不安になっていたその時、前方で小さな明かりが振られているが見えた。

誰かが位置を知らせてくれているのだ。それは北沢さんだった。うれしかった。

2330分。 雪洞にようやく着く。

崩れるようにして腰をおろしたが靴を脱ぐ気力がない。30分ほどそのまま座っていたら、北沢さんが温かい飲み物を持ってきてくれた。丸一日何も口にしていないのにまるで食欲がない。少し飲んだ途端、青い液状のものを吐いた。

明くる日、松本さんと私の二人は南側を下りることにした。北沢さんたちは隊の指示で北側を下りることになった。

カルカラの緑のキャンプ場に戻ったとき、生きていることを実感した。氷と岩からなる無機の世界で長くあがいてきた後では、すべてが新鮮だ。登頂の数倍の感動がそこにはあった。

キャンプ場に入って、北沢さんが下山中に滑落死されたことを知らされた。信じたくない出来事だった。彼の優しさが思い出されて胸をつく。

額に汗をして山に登ると思いがけない体験をすることがある。

ハンテングリ登山でも、いろいろと貴重な体験をした。なかでも、ロシアに対する長年のしこりが溶けたことは望外の収穫であった。
ハンテングリはもう無理かもしれないが、何かに出会うためにまた山靴を履こう。



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